江戸時代、前期から後期「槻之御庭」あるいは「御庭」
後期以降「玄宮園」
玄宮園の”お国自慢”報告書(彦根ボランティアガイド協会)
名称
作成者
不明
築年開始年
1677(延宝5)年、4代藩主井伊直興によって造営される下屋敷「槻御殿」の庭園として築庭。
1813(文化10)年頃に再整備される。
利用の開始および一応の完成年
利用の開始は不明
1679(延宝7)年に槻御殿が完成。
1813(文化10)年頃に再整備される。
庭園の所在地
・場内にある。
・城との距離[表御殿から、本丸から、共に直線で約250m]
庭園の特徴
※回遊性
池泉回遊式の大名庭園でどの位置から眺めても見事な景観となっている。
※借 景
池の水面に写る彦根城および国宝の天守が借景として、お城の美しさをひきたてている。
※水の利用
彦根城の外堀南端部は旧河川を利用しているため湧水が複雑存在。この湧水を古式水道によって約1Km離れた玄宮園に引き込んだ。
※御茶屋
藩主及び隠居した藩主の滞在は、隣接する槻御殿が用いられ、玄宮園のお茶屋は茶会の会催事のみ使用された。
※饗応の場として
玄宮園及び槻御殿では、家臣や井伊家に関係が深い寺院の僧侶が招かれ、茶会や能、蹴毬等が催された。
※領民への公開
公開は、家臣や井伊家に関係の深い人物に限られる。
※能舞台(座敷)
11代藩主直中の時、槻御殿に設けられる。平成19年度の発掘調査によって絵図に符号する位置が確認される。
※田 畑
絵図には「神田」と記されている。平成22年度の発掘調査で確認、平成24年度に復元整備。
※武芸の場
庭園内に「春風埒」と呼ばれた馬場(100間=200m)が設けられ、その端部には「垜」が設けられており、遠的も行われた。
作庭の主な目的
藩庁である表御殿に対して、藩主の下屋敷あるいは隠居した藩主の隠居所として利用された。
藩主の慰楽の場としての私的な利用と、家臣等への饗応や茶会、田植え神事等といった藩政に関わる公的な利用がなされた。そして、これらの行為に対応する広範ば回遊式庭園が求められた。
領国に庭園 城との関係
玄宮園は下屋敷である槻御殿に付属する庭園であったが、槻御殿が11代直中の隠居所(18年間使用)となったことによって、新たな下屋敷である松原御下屋敷「名勝旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園」が1810(文化7)年から造営される。 城との関係としては、二の丸の最北部に位置し、松原内湖に面し、城下町とは離れた風光明媚な環境に造営されている。
全国の大名庭園との類似点と相違点
類似点:庭全体が囲みの中に作庭されていて、江戸時代の特徴である、縮景の庭をこの玄宮園に見ることができる。
相違点:国宝の天守が見える、場内に残る大名庭園としては国内で唯一である。
現在のポイント
※一言で庭園の特徴を言うなら
国宝の天守が見える庭園
※ここは見逃せない!という点
1.玄宮園からの眺望である彦根城については、全体が特別史跡に指定されており、天守は国宝に指定されている。このように、特別史跡や国宝といった当時のままの「本物」が名勝に指定されている「本物」の庭園からの眺望となっている庭園は、彦根城が唯一である。なお、彦根城・玄宮楽々園・お城御殿は日本遺産に認定れてている。
2.四季により変化する景観。春は彦根城の桜を眺めることができる。夏は池に映える水鏡の彦根城と新緑。秋は紅葉のライトアップ。冬は真っ白な彦根城と庭一面の雪化粧。
3.江戸時代に戻ることのできる世界。彦根城全体が特別史跡になっていることや、景観を阻害する周辺施設が見えないように外周林をコントロールしていることから、ビル等に現在建築物が見えない。自然と融和した景観が保持できている。また、場内であるため、自動車等の騒音が聞こえない現代社会と隔離した、ゆったりとした時間の流れる空間となっている。
庭木に手入れが行き届いており、それらの枝ぶりは江戸時代の石組や歴史的な建造物、円外の景観と調和した空間を作り出している。
現在の管理団体
彦根市
大名家から移管された年といきさつ
明治以降も伯爵家であった井伊家が所有し、旅館等に施設を貸し出していた。戦後、1947(昭和22)年に井伊家から彦根市が取得。
観光写真で有名な一枚と特徴的な風景
玄宮園
茶室の鳳翔台からの遠望
佐和山を眺める
庭園にある田園風景
(「第11回 大名庭園サミット岡山大会 資料」より)