兼六園

兼六園の”お国自慢”報告書(金沢城・兼六園研究会)

名称

江戸時代、作成時「蓮池庭」後に拡張した竹沢庭と一体化⇒「兼六園」
(1822(文久5)年、松平定信より「兼六園」の揮毫届く)

1871(明治4)年2月、「与楽園」と命名し公開、すぐに「兼六園」に。

1874(明治7)年、太政官布告により「兼六公園」と名を改めて公開。

1924(大正11)年3月、「金沢公園」として国名勝として指定され、2年後に「兼六園」の名称に復する。

    

作成者

加賀藩前田家 5代藩主 前田綱紀

    

築年開始年

1676(延宝4)年

    

利用の開始および一応の完成年

1676(延宝4)年から利用開始
1860(万延元)年に現在の姿になった

    

庭園の所在地

・領国の城外に城に隣接してある。
・城との距離[金沢城の百聞堀の対岸]

    

庭園の特徴

※回遊性

池泉回遊式庭園です。

    

※借 景

1822(文久3)年に12代斉広が竹沢御殿の庭に卯辰山を借景として取り込む

    

※水の利用

兼六園から約11㎞先の犀川上流から取水し、途中の犀川浄水場から専用管(約6Km)で兼六園まで引く。

    

※御茶屋

5代綱紀は蓮池御屋敷(時雨亭)での執務や休息。11代治脩は夕顔亭での開放的な茶室から、翠滝の大きな音を聞きながらお茶を楽しみ、紅葉を鑑賞した。(滝見ノ御亭といわれた)

    

※饗応の場として

1678(延宝6)年12月、5代綱紀は家老5人を蓮池庭之上屋敷に招き饗応する。泉水際の御亭で茶を点じる。(葛巻昌輿日記)

1686(貞享3)年、5代綱紀は家老を蓮池庭之上屋敷に招き饗応する。馬場御亭で将軍からは拝領した馬を披露する。(葛巻昌輿日記)

1747(享保4)年10月、年寄らを紅葉見物に招き、蓮池御亭でお菓子、御酒を出しねぎらう(前田長幹日記)

1755(宝暦5)年5月、10代重教国目付を蓮池御亭で饗応する。(泰雲公日記)
斉広の7女寿々姫が本多播磨守正和に嫁ぐに当たり、入輿を前に蓮池庭において母・栄操院(斉泰と寿々姫は同腹)から夕食と夜食が献上された。

1854(安政元)年、13代斉泰は14代大聖寺藩主前田利鬯に饗応

1848(嘉永元)年6月4日、蓮池庭で花火が行われた。

1966(慶応2)年9月22日、竹沢庭にて、家老や年寄たちが「象」の見学を許された。


※領民への公開

1823(文政6)年、12代斉広は、鎮守の祭礼を毎年2月24日・25日に定め、場内のお宮(東照宮)で行われる4月17日の祭礼通りに、家中および町方など男女、並びに15歳以下の男子の参詣を勝手次第とする。(官私随筆)

1852(嘉永5)年4月24日~5月5日、13代斉泰は、天満宮950年歳神忌の祝賀神事を行う。27日から家中、町方番所の天満宮(現金沢神社)参拝と蓮池庭拝見を認める(成瀬正敦日記)

1869(明治2)年正月15日、12代斉広正室真龍院の83歳の祝賀に呼ばれた藩お抱えの能役者が、お庭(山崎山・氷室・相生の末・陰陽石・石橋・灯篭等、御座舟)拝見する。


※能舞台(座敷)

12代斉広が建てた竹沢御殿には2つの能舞台があり、1823(文政6)年3月18・19日能舞台開きの能を催す。以後108回の能を演ずる。(加賀藩史料)
1869(明治2)年正月、14代憲寧は、真龍院の83歳を祝って囃子を催す。天満宮の楽殿で13代斉泰と「老松・巻絹・右近」の3曲を舞う。泉水(現霞ヶ池)に御座舟を3艘浮かべ、憲寧は「高砂」で太鼓を打ち、「羽衣」でシテを舞う。(御能御囃子組扣)


※田 畑

「竹沢御殿御屋敷総絵図」には蓮池庭の部分が棚田風に描かれている。また、竹沢庭(千歳台)は畑が描かれている。
蓮池庭には水田があったことについて、「園ノ南端ニアリシト。松雲公カッテ此ノ所ニ六十六州種米ヲ分植エ、其宜キヲ省試セラレタリ」とある。(兼六公園誌・六十六枚田の項)
竹沢庭には枇杷、栗、西瓜が毎年とれ、1841(天保12)年7月、竹沢庭の畑で出来た西瓜一籠を、翌13年5月枇杷一籠を、天徳院の斉広などの位牌に供えれる。(成瀬正敦日記)
竹沢庭部分には綿羊が飼われ、鶴もいた。また、落ち鮎の季節には、鮎簗が設けられていた。(成瀬正敦日記)


※武芸の場

1730(享保15)年3月7日、7代宗辰(勝丸)6歳のとき、蓮池庭で鷹狩を行う。(加賀藩史料)

1735(享保20)年9月28日、7代宗辰(11歳)蓮池馬場にて乗馬初めを行う。(中川長定覚書)

1774(安永3)年4月、11代治脩は蓮池馬場で夕影・横山栗毛の2頭に乗る。蓮池馬場の垜(あずち)で射撃をする。(大梁公日記)

1832(天保3)年、13代斉泰が実母栄操院と弟延之助も同行し、延之助は蓮池馬場で乗馬を試みている。(温敬公日記)

    

作庭の主な目的

藩主のプライベートガーデン、多種多様な用途に対応したマルチ庭園として利用

○癒しの場
○饗応接待の場
○鍛練(訓練)の場
○藩主教育の場(農民生活を知る・食糧生産の場。田や畑)
○思索思案の場

    

領国に庭園 城との関係

江戸時代初期、兼六園の地は防衛の拠点として位置づけられていた。後に金沢城の外庭として、加賀藩の平和と繁栄の願いを込めて歴代藩主によって造られた。約11.4ha(34,600坪)という広大な敷地に辰巳用水という流れを取り込み、起伏に富んだ地形(河岸段丘)を利用して山や海を表現した。辰巳用水の水は、金沢城二ノ丸から玉泉院丸庭園を潤した。

    

全国の大名庭園との類似点と相違点

類似点:江戸藩邸への将軍の御成により藩邸の庭の作庭が、領国の城の庭園の作庭へと発展した。また広大な土地を利用して池泉回遊式庭園となっている。

相違点:六勝(宏大・幽邃、人力・蒼古、水泉・眺望)を兼ね備えた素晴らしさ。辰巳用水のおかげで53mの高台でありながら、「水の四景」である流水(流れ)・落水(滝)・湛水(池)・湧水(噴水)という豊かな水泉の美を確保することを特徴とする。

    

現在のポイント

※一言で庭園の特徴を言うなら

「六勝を兼ね備えた大名庭園・辰巳用水が創り出す水泉の美」


※ここは見逃せない!という点

1.「宏大・幽邃、人力・蒼古、水泉・眺望」の6つを兼ね備える大名庭園であること。

2.兼六園から約11Km先の犀川上流辰巳用水取水口から約53mの高台に水を引き、今もって「水泉の美」を保っていること。(曲水・霞ヶ池・瓢池・翠滝・噴水)

3.瓢池周辺

4.栄螺山から見た霞ヶ池

    

現在の管理団体

管理:石川県土木部公園緑地課
現地:石川県金沢城・兼六園管理事務所

    

大名家から移管された年といきさつ

1871(明治4)年、廃藩置県により金沢藩は廃止され、県の管轄になる。

    

観光写真で有名な一枚と特徴的な風景

  • 霞ヶ池と徽軫灯籠
    霞ヶ池と徽軫灯籠
  • 曲水の美
    曲水の美
  • 栄螺山から見た霞ヶ池
    栄螺山から見た霞ヶ池
  • 瓢池と翠滝
    瓢池と翠滝

(「第11回 大名庭園サミット岡山大会 資料」より)

兼六園の大名庭園民間交流協議会 構成団体の説明

名称

金沢城・兼六園研究会

設立年月

平成3年6月1日

会員数

140 名(男:89名、女:51名)

役員

会  長 安立利光
副会長・研修担当 木下幸子
副会長・解説担当 越野 洋
研究担当 中田廉子
広報担当 原 守
総務担当 佐野 烈
会計担当 舟橋弘美

所在地

〒920-0936 金沢市兼六町1ー4
金沢城・兼六園管理事務所分室気付

主な事業目的

金沢城・兼六園等文化財に関する事項の学習と普及の事業を行い、地域・生活文化の振興に貢献する

第10回大会後の主な活動

Ⅰ学習活動

(1)講演(4回開催)
(2)研修旅行(2回実施)
(3)研究発表(1回実施)
(4)きくざくら学習会(5回実施)

Ⅱ普及活動

(1)解説ガイド(8回実施)
(2)出前講座「金沢城大学」2回実施
(3)高砂大学院での講義
(4)兼六園こどもガイトフック作成着手

Ⅲ広報活動

(1)会報「城と庭の研究会便り」発行(偶数月
(2)研究発表文集「きくざくら」25号発行

Ⅳサークル活動

(1)兼六園をもっと知る会
(2)お城研究サークル
(3)22期の会、23期の会、24期の会、25期の会、26期の会

会報発行状況

年6回(偶数月)「城と庭の研究会便り」を発行

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