江戸時代 後楽園
1923(大正12)年、小石川後楽園
小石川後楽園の”お国自慢”報告書(NPO法人小石川後楽園庭園保存会)
名称
作成者
水戸藩主 徳川頼房(徳大寺左兵衛)、二代目藩主 徳川光圀(朱舜水)
築年開始年
1629(寛永6)年3月頃
利用の開始および一応の完成年
1636(寛永13)年頃、屋敷が完成されてまもなく火災になり、再建があってから庭の利用が始まる。
明治維新後、国の管轄となり、一般公開されたのが1938(昭和13)年からである。
陸軍砲兵工廠時代、田村剛により改修。関東大震災、第二次世界大戦により庭園内の複数の施設が焼却し現在に至る。
庭園の所在地
・城との距離[外堀の北側に面する]
庭園の特徴
※回遊性
大泉水を中心に多くの景観を配する。
※借 景
大泉水の北側の松原。内庭からの富士山(現在は見えず)
※水の利用
園内に神田上水を引き込み、大泉水はその調整池の役割を果たした。
そして、神田・日本橋方面の上水として利用された。
※御茶屋
園内に更にこの世とは思えぬ美しい庭を造り金箔を施した障子がある河原書院があった。作られてから間もなくして火災がありその後、琴画亭が建てられたがこれも焼失して以後再建されなかった。
※饗応の場として
上述の河原書院はまさに饗応の場であり、その一部として茶室があったと思われる。
※領民への公開
2代藩主光圀の時代に領民に開放したとの記録があり。「西山遺事」(元禄14年、富田清貞・牧野和高撰)
※能舞台(座敷)
河原書院に併設されていたとの記録あり「後楽記事」1736(元文元)年源信興著作
※田 畑
2代藩主光圀が、息子の妻のため稲田を造り、農民の苦労を伝えたという。今でもあり地元の小学生が田植えと稲刈りに参加している。
※武芸の場
園内に南側に桜の馬場あり、両側に見事な桜が植えられており、景勝地となっていたという。現在は無い。
後楽園の東側で屋敷との間に空閑地があったが、その辺りに武芸場があったのではないかと推測される。(現在の東京ドームに西側あたり)
作庭の主な目的
将軍家や諸大名を招いての親交の場として利用。彰考館員及び家臣の憩いの場、稽古の場として活用された。
領国に庭園 城との関係
偕楽園
全国の大名庭園との類似点と相違点
類似点:江戸時代初期に(幕府の要請で)成された庭園で、一般的に広大な敷地を要し、回遊式庭園である事。
相違点:江戸の屋敷に造られた庭園である事。作庭された時期が早いこともあり、その後作庭された大名庭園の手本とされた庭園である事。
中国(明)の文化
現在のポイント
※一言で庭園の特徴を言うなら
本来沼地で高低差があり、その地形を生かした雄壮、荘厳な庭
御三家の1つである水戸藩に作られた庭園で、「水戸黄門漫遊記」でお馴染みの2代藩主徳川光圀は明の学者、朱舜水の意見を取り入れ中国趣味(明)の景観を取り入れ初代藩主頼房の景観を壊すことなく調和された庭園で、作庭当初は奇岩、喬木の覆い茂る雄壮な庭であったこと。その後の大名庭園の見本とされた庭園であること。
※ここは見逃せない!という点
1.現在閉鎖されている東門(正門)を常時開門し、復元予定の唐門をくぐって園内に入ること。
2.唐門から泉水までの中山道・両側の木曽山と木曽谷
3.大泉水の景観(亀島 亀頭に当たる大石(徳大寺石とも))
4.唐崎の末、枝垂れ桜、小富士(小廬山)、蓮池
5.大堰川、西湖堤、清水舞台跡、得仁堂
6.円月橋
7.梅林、花菖蒲園、稲田
8.九八屋、松原、船着場
現在の管理団体
直接的には東京都 建築局(公園緑地部)
代行管理 指定管理者 公益財団法人東京都公園協会
大名家から移管された年といきさつ
1869(明治2)年、版籍奉還により邸宅と共に邸地は新政府に上地され、兵部省の管轄となる。
1871(明治6)年、砲兵工廠の敷地の一部となる。
1923(大正12)年、陸軍造兵廠となって国の史跡、名勝の指定を受ける。
1936(昭和11)年、文部省の所管となり、東京市長が管理者になる。
1938(昭和13)年、一般公開。
1945(昭和27)年、文化財保護法に基づいて国の特別史跡・特別名勝に指定される。東京都は外郭団体である財団法人東京都公園協会に代行させてきた。
2003(平成15)年、地方自治法の一部改正の交付に伴い「公営組織の法人化、民営化」の一環として外郭団体であった東京都公園協会を民間団体である公益財団法人として組織替えを5年に一度、公募して管理運営方法等を提案させ、信頼のおける団体に代行させるという方式で、現在も代行指定され管理運営を行っている。
観光写真で有名な一枚と特徴的な風景
小石川後楽園
光圀が愛した唐崎の松
渡月橋から大堰川と通天閣
九八屋
(「第11回 大名庭園サミット岡山大会 資料」より)