江戸時代、御菜園場・御茶屋⇒御後園
1871(明治4)、後楽園
現在は岡山後楽園
岡山後楽園の”お国自慢”報告書(岡山藩郡代津田永忠顕彰会)
名称
作成者
岡山藩池田家 2代目藩主 池田綱政
築年開始年
1687(貞享4)年
利用の開始および一応の完成年
1689(元禄2)年から利用開始
1700(元禄13)年に外形が整ったことで一応の完成とする。
庭園の所在地
・郊外
・城との距離[本丸と川をはさんだ対岸]
庭園の特徴
※回遊性
主に座敷から眺める。
延養亭の主室が主たる視点場。
庭に点在する建物もそれぞれ視点場になる。唯心山ができたことで回遊性が増した。
※借 景
操山。かつては10Km先の芥子山までが借景。現在は借景保存の条例もある。
※水の利用
農村部に流れる用水の川末を利用。
※御茶屋
延養亭は藩主専用の居間、その他は饗応にも利用。
※饗応の場として
藩主への訪問客のもてなしで栄唱の間などを利用
※領民への公開
藩主が江戸参府中が日を決めて領民に公開。
※能舞台(座敷)
池田綱政が設置し、継政が改築。戦災で焼失したが復元された。
※田 畑
平地の3/4は田畑だった。領民を招いて田植えの行事を開催するなど、かなり本格的な耕作がおこなわれた。
1771(明和8)年以降、倹約のため縮小。現在は井田・茶畑にその名残がある。
※武芸の場
馬場、弓場には付属の建物も現存。
馬場、弓場では若い殿様が稽古したほか、家臣団の武芸の上達ぶりを披露する場としても利用された。
太刀の稽古をした「武芸場」は戦火で焼失。
作庭の主な目的
藩主のやすらぎの場としてつくられ、延養亭は藩主専用の居間として使われた。またほかの建物も庭周りの途中の休息地として利用し、藩主への訪問客のもてなしにも利用された。
庭園は、藩主不在時には日を決めて領民にも公開した。
領国に庭園 城との関係
藩主が居住する城本丸の背後にあり、藩主のやすらぎの庭として一体のものとして存在する。
全国の大名庭園との類似点と相違点
類似点:広大な土地を利用し、御茶屋を点在させる。
相違点:当初は座敷からの眺望を楽しむ庭園。中央に築山を創ったことで回遊性が備わるなど、当初からの回遊性が薄い。許可が有れば領民の入園が可能であった。
現在のポイント
※一言で庭園の特徴を言うなら
明るく広々
※ここは見逃せない!という点
1.景色の中心と要素
2.造形的に斬新な部分や美観
3.城との関係
4.タンチョウが遊ぶ庭
現在の管理団体
管理:岡山県都市計画課
現地:岡山県後楽園事務所 [部分委託](公財)岡山県郷土文化財団
大名家から移管された年といきさつ
1884(明治17)年、「名園保存」を目的に岡山県に有償譲度。しばらくは「県庁付属地」として、規則をもって管理され日没閉門であった。大正時代から公園として把握された。
観光写真で有名な一枚と特徴的な風景
岡山後楽園
延養亭の眺望
唯心山から沢の池を眺める
田園風景
(「第11回 大名庭園サミット岡山大会 資料」より)