江戸時代、栗林荘、御林、御林御殿、御林御庭
1875(明治8)年、栗林公園
栗林公園の”お国自慢”報告書(栗林公園ボランティアガイドクラブ)
名称
作成者
讃岐国生駒家 4代藩主 生駒高俊(諸説あり)
築年開始年
1624-1645(寛永期)年ごろ1630年代の築庭開始と推測される
利用の開始および一応の完成年
利用開始は不明(生駒時代の利用記録なし)
1745(延享2)年に各所を命名したことにより完成となる
庭園の所在地
・城との距離[城より2.5Km 江戸中期には城下町の拡大に伴い城下町の南端となる]
庭園の特徴
※回遊性
掬月亭からの鑑賞もあるが、回遊が中心
※借 景
紫雲山を背景とするが、紫雲山を背景の事物として主要な庭園の構成要素として取り入れているもので、紫雲山がなければまとまりのない庭園空間となる。
※水の利用
元河川敷であったことから、豊富な伏流水がありその湧水を利用し35,000㎡に及ぶ広大な池泉を有する。
※御茶屋
1659(万治2)年には38日間の滞在の記録あり。
※饗応の場として
切手御門(東門)の存在、家臣、領地内の主要な寺の住職の拝顔など饗応の場としての記録あり。
※領民への公開
1827(文政10)年、藩への献金者への褒賞としてお庭拝観の記録はあるが、一般領民への公開記録はない。
※能舞台(座敷)
舞台の有無は不明であるが、松平初代頼重の頃には、栗林荘で猿楽、能を自ら舞った記録がたびたびある。
※田 畑
1660(万治3)年、栗林荘中に田畝があり中間10人の付属せしめると記録あり。
1748(寛延13)年、「梅木原薬園」という薬草園が経営される。
※武芸の場
1700(元禄13)年に描かれた「御林御庭図」中において講武榭の位置に矢場御殿、馬場御殿の表記、他の江戸時代古図においても「桜の馬場」「愛駿榭」など馬場関連施設の表記あり。現在は桜の馬場のみ。
作庭の主な目的
領国内における別邸として藩主のやすらぎの場として整備。また、松平の時代には調馬、狩猟、武芸の場を加えて本格的な築庭がなされた。また、お庭焼、茶の湯、能などの教養を磨く場としての性格もある。
一方、薬園(農業試験場)、池水の灌漑用水利用、失業対策を行う場、おもてなしの場でもあり都市機能を持たせることも目的のひとつであった。
領国に庭園 城との関係
藩主のやすらぎに場として、城から日帰りできる距離に築庭。その後、松平時代には「檜御殿」を建て、滞在可能な下屋敷(隠居所・別荘)として機能。松平3代頼豊は栗林荘にて政務を行った。
全国の大名庭園との類似点と相違点
類似点:広大な土地を利用し、池泉を中心とした回遊式庭園。茶の湯をはじめ、人を饗応する場として機能
相違点:薬園を営む、池水を田畑の灌漑用水として利用、狩猟の場(鷹狩、鴨場、銃使用)、お庭焼、飢饉対策を展開(庭石・労務)
現在のポイント
※一言で庭園の特徴を言うなら
一歩一景
※ここは見逃せない!という点
1.松の樹芸(庭園の植栽は、松が主景木として配置されており、園内約 1,400本の松のうち約 1,000本が手入れ松である。手入松であることから、庭景が変化しづらく往時の姿をよく残している)
2.大茶屋「掬月亭」(雁行型に建てられた掬月亭は、天井や壁も和紙が貼られ、軽快で開放的な印象がある茶亭である。庭景を茶室に取り込む手法は、まさに圧巻であり、観月のための池の配置も見逃せない)
3.飛来峰・芙蓉峰(富士型の築山であり、江戸期の名所を庭に取り込んでいる。山頂に登ることができ、主要な眺望地点となっている)
4.広大な池と舟遊び(6つの池は複雑な形態となっており、景観の変化を楽しめる。また、その大きさは、庭園の明るさと広大さを演出しており、南湖での舟遊びは、往時の利用を彷彿させてくれ至福の時を満喫できる)
5.紫雲山(庭の西側に位置する紫雲山があることにより、広大な庭園にまとまりが埋めれている。この紫雲山が、この場所に庭園を築かせた最大の要因か)
現在の管理団体
香川県-栗林公園観光事務所
(部分管理)(公社)香川県観光協会、㈱キャリアステーション、(一財)かがわ県産品振興機構、㈱ニ蝶、㈱フェアリー・テイル
大名家から移管された年といきさつ
明治には明治政府所有の官有となったが1873(明治6)年の太政官布告に基づき、1875(明治8)年3月16日に「栗林公園」として県立公園となる。
観光写真で有名な一枚と特徴的な風景
飛来峰からの眺望
掬月亭
箱松
天女嶋の石組
(「第11回 大名庭園サミット岡山大会 資料」より)